人間的楽しみの概念範囲のズレ

昨夜はハーポ部長宅で会議の後ダンスホール・レゲエのビデオ「BASHMEBT2」を鑑賞。これは西洋でいう大衆音楽という概念からははみ出したお笑いと近似隣接したジャンルなのだと認識した。顔芸とダンスとマイムとアクロバットと演芸的話芸と性。明らかにズレている。日本のお笑いが言葉に特化した物ということも逆認識出来た。エクリチュールに依った笑いという感情を「お笑い」としていたのが、ここで改めてなければ。そんな意味でポストコロニアル文化の豊穣さを分かちあわせてもらった。
彼のその映像と音楽をもってルームジョッキー(RJ)とする、もてなしの作法も、そのまま茶道の茶室でのもてなしに近似していた。なるほど茶道とクラブDJの相似性を個人室内で融合させている。僕はほんの少し遠州流を舐めたことがあるのだが、彼の流儀に茶事のデジャブをもった。
そして趣味範囲もある種の研究心と絶妙なバランスで保たれた様に思えた。それは茶道がもちうる範疇、茶室-建築/書画-グラフィックアート/茶陶道具-プロダクト/懐石と茶菓とその流儀-飲食文化全般/和歌-詩歌/茶庭と茶花-ガーデニング/茶訓-イデア の様な大きな内包範囲をもつ様に思えた。
そういえば、ダンス/グラフ/ラップ/DJを合わせもつヒップホップという範疇も西洋のアート解釈からよく考えれば奇妙である。

しかしそうなのだ。アートとはモダニズムの機能として形成された政治/哲学/宗教/科学等の分断した括り方でしかないのだ。アートとはコードである。基礎教養が無いと絵画は理解出来ない。それはモダンであるか否かと人を裁く。
しかしそれは西洋のヘゲモニー下では確かにそうかもしれない。しかし〈生かされずに生きる〉という部分では全く裁きをすり抜け新しいコードを作る事の可能性であるのだ。ある意味ヒップホップやレゲエや茶道やロックの本質もそうあるのであろう。

〈生かされずに生きる〉楽しみをモダニズムは分断し、社会科学/人文/文学/芸術/スポーツと労働を分けた。もしかしたら左翼運動敗退とはこのモダニズムの統治的な意味での分断に負けたといってもいいかもしれない。明晰な式図と解釈が、運動そのものの力になったとはいえず、論理的正統性と感情の正当性の齟齬を起こしてきた。なんとなくで伝わらない正しさは負けるのだ。

新しい概念とエクリチュールは、マルチュードというアンモダンな存在を産み出すのかもしれない。