2004帰郷

新自由主義の影響と裏日本ならではの変化しない因習の両方を実感しながら、しかしでも、実父の思想と行動の軌跡がもっとも印象に残った8日間でした。自分がいかに彼の影響下で物事を思考し選択してきたか痛感しながら、彼の居ないこれからの無情の世界を渡ってゆくことの困難さを改めて思うのです。

ある意味非常に厳格な行動者だった父は、地味で日の当たらないところをフィールドワークとしながらひたすらその地固めをした人生であったと。彼の人生は、45年8月15日未明の土崎空襲(日本最後の被災)の体験からイデオロギーの核として“反戦”“生命”“地域”を据え、逆説的に“教育者”と“末端党員”であることを選択し行動してきた。50年代の青春時代はボーイスカウト体験によって、歴史の積みあがった郷土と豊かな自然のテクスチャーが人々を創り上げることを実体験して教職の道へ、その頃には東北の各地史跡を通して空間と時間と人間を3Dマッピング出来るようになっていた様だ。60年安保のインパクトも戦争体験から演繹し消化していて、県内の花岡事件や多喜二の獄死へ思考を回収し、結果的に30年代の“北方教育”の戦後の実践者として“地域”“政治”“教育”を結びつけ自主独立空間としての地元を志向、民教研を引っ張る事になる。70年安保の頃は反権力ラディカリズムではなく“ベトナム”と“子供”に焦点が行っていた様で、そこから結果的にヘゲモニー闘争を地に足をつけた長いスパンとして選択したようだ。ハノイには75年と82年に行っており、趣味であったカメラを生かしてかの地の子供達の様子をスライドに残している。彼の思考は下に重なる歴史と左右に連なる地理を駆使して土着性をモダンに解体して見せていた。しかし功利主義と決別した愛郷心、アカデミズムと無縁の現場主義、ドグマとは距離を置いた実感主体によって一教師として行動をまっとうしたのだった。

僕の父との古い記憶は、メーデーをピクニックの様に一緒に歩いたことと、“わらび座”を観に行ったことかな。でも僕は父から直接何も教えられていない、言葉や文字でイデオローグされた事は本当に一度も無い。しかしある意味で英才教育されたのだなぁと今もってわかる。日本海を内海として東が上になった地図が貼られた部屋で世界史と日本史を同時に読み込み東北学を勤勉し、県内の祭りに遊びに行き、ラグビー高校野球を見て中学野球を審判し、スキーを楽しみ山歩きをする父。お洒落で毎回入院前には髪を切りに出かけ、服装に非常に気を使いスーツをオーダーし、カメラが好きで写真を引き伸ばし現像しパネル貼りし、クラシックとモダンジャズを聴き、日展と国宝展と工芸を観賞し、ロードショーでない映画にわざわざ出かけ、通勤や旅の足としてバイクに50代まで乗り続け、手塚治虫全集と清張と三島と太宰とプロレタリア文学白樺派を愛読するモダンな父、それらを僕は横から眺め掠め取り楽しんだ。晩年は60の手習いで組み木細工や彫刻もしていたみたいだった。

親父のやっていることは地味で非効率で古臭くて、と冒険主義に溺れそうだった若い僕は思ったり対抗したりしたものだった。でもいい加減大風呂敷を広げるほど若くない自分は、着実に種を蒔き続けた父を敵わないなと改めて思うのだ。孝行息子とは言えない自分が思うのは、彼の思考を改めて咀嚼して僕なりに行動してゆく事が供養になるのかなと。実家に山ほどある書籍や資料、読み込むのは大変だが、今は随分それが楽しい事に思えている。