啓蒙問題

某音楽家のシークレットでアンダーグラウンドな勉強会っつうか学習会に潜り込んできた。
彼/彼女のスタンスは、ここでのことをネットで口外しないように、というものなので、それを尊重しながら慎重に。そのスタンスは、非先進国の非エリートの言葉が価値観が遡上しないすることがない、インターネットの言説空間の欺瞞を刺すに十分な、サバルタン問題(http://www.amazon.co.jp/dp/4622050315)とメジャー・ミュージシャンのパパラッチ問題を加味したもので、納得がいく。

楽家は、既に某学会誌に『○○○!』という文章を発表しているので、今回の中身もそれに準じた形で、反グローバリズムについて。その文章は、童話に似せたスタイルのフィクションで、個人的には『茶色の朝』(http://www.amazon.co.jp/dp/4272600478)に非常によく似ている様に考えていた。「茶色」のかわりに「灰色」を用い、その金と権力に象徴される世界に虹色の世界の善性が対峙する、というもの。
僕は「寓話」というものが、非常に苦手だ(そして比喩表現も)。それは改めてどこかで説明したい。とにかく寓話は、高度の抽象性を持つので非常に危うい。ボルヘスハイナー・ミュラーやべケットぐらいの視線を保持し、神ではなく流れの中の作家として、「寓話」を作品として見せられるほど、『○○○!』が卓越したものではない、のが不満であった。ひとことで云えば稚拙であり、それはミュージシャンでありながら英米文学科で言葉の人であった彼/彼女への期待の裏返しでもあったのだが。

しかし今回は、そのテクストではなく、映像を使っていた。パートナーの白人の撮影・編集・翻訳・監督した映像を上映しながら、二人で日本語/英語で『○○○!』の同一の世界観のテクストを朗読しながらも、ギターに似た楽器を伴奏するというもの。映画を解体/再構成した一つのアートフォームとして成功していて、ブレヒト的な教育劇の効用を発揮していた。それはもちろん有名ミュージシャンが啓蒙する、というスタイルの異化効果が大きいのだろうが。


その映像はメヒコ(メキシコ)のオアハカからはじまった。この僕の日記(http://d.hatena.ne.jp/quawabe/20061101)にも書かれているオアハカの運動と弾圧のことを、現地で撮影してきた映像だ。州知事の権力腐敗とオアハカ州職員組合を守るために、お母さんお父さんたちがその友愛を前提に立ち上がり、警察と機動隊の組織暴力と対峙した様子を、民主主義と友愛の共同体を見つめる視線で活写。ファンキーなデモと直接行動は、悦びを政治から引きはがさない素晴らしい絵だった。その後、今日も警察の弾圧で何人かが殺されたことをミュージシャンは語る。
これを知る映像はたくさんある→http://www.youtube.com/results?search_query=Oaxaca
しかし、視聴者はあまりに違う日本との接続に戸惑いを隠せないようでもあった。
そしてメキシコシティー。昨年の大統領選での左派大統領候補陣の勝利が、メディア資本と結託したファシスト大統領によって誤魔化され騙され逆転されたことを、一般市民の目から映す。明らかに不正があったことをチョムスキー的なやりかたで描き、証券取引所の「灰色」の男達を盗み撮り。もちろんカメラはマルコス副司令官も追いかけた。
サパティスタの行動を初めて知る、聴衆。お洒落裏原系/渋谷系のセレブなデザイナーやアーチストやミュージシャン達。その違和感に異化効果を感じてしまった。

そしてパナマ。「灰色」の思惑であるパナマ運河拡張をめぐる吐き気のするバビロン支配を、現地のやるせない目線でグローバリズムの負を映す。日本製品や中国製品が運河を渡り、その過程で中継地点のパナマを汚染してゆく。収奪の現場を、化粧をしない資本主義の残酷さを、その上の豊かさを書く。経済開発主義は決して人を豊かにはしない。

それから、ベネズエラへ。底辺労働者階級のおばさんにくっついてドキュメント、猪木的大統領チャベスへの親愛を引き出す。テレビのチャベス生放送番組に突っ込みを入れるおばちゃん。彼の施行した再分配に感謝するおばちゃん。クーデターのときのチャベスへの信頼行動を回想して「愛している」と言葉する。大きな政治が小さな政治と接続されているのが驚きであり、チャベスの笑かすギャグにベネズエラ国民が浜ちゃんみたいに総突っ込みするのも発見。チャベスを独裁者だと報するニューヨークタイムスを手にし、「灰色」の手先と喝破する某音楽家、それを証明する一級映像。

次はボリビア、原住民出身モラレス大統領登場。元々の持ち主であるインディオに、大地主制度を解体し分け与える政治的祝祭を活写。そして伝統的なカラフルなインディオの模様を生地屋のおばさんに聞く。その後、モラレスの元に中南米の大統領たちが集まったサミット、アメリカが絶対に報道しない不都合な真実的会議を映す。ボリビア副大統領は元テロリストというレッテルの運動家で、ファンキーでウキウキで歌を歌い、モラレス大統領はコカの葉を食べる。アメリカのイデオロギー洗脳の下で絶対に流れないそれらは、映像としてかなり貴重だ。
しかし『闘争の最小回路』(http://www.amazon.co.jp/dp/4409240765)で状況を知っていたので、すんなり理解は出来たのだが、初対面したアメリカ的見方しかしてこなかった日本の豊かな視聴者は何を思ったのか。

最後は、錫の鉱山。グローバリゼーションの大きな負。汚染された土地。人が使い捨てられる鉱山。レアメタルは携帯電話やパソコンに不可欠であり、それへの大規模金融投機がおこっているが、実際は経済的奴隷制を強化している。参考はこれ→『グローバル経済と現代奴隷制』(http://www.amazon.co.jp/dp/4773627018)最後は坑道を守る悪魔(的な地元の神様)を見るため地下800メートルまで降りて撮影。


とりあえず、映像が寓話をふっ飛ばす力があった。つまり寓話は、日本の豊かなマトリックスに住む凡人には、想像力の架け橋になっているのだろう。そして生の朗読と生ライブは異化効果として、作品鑑賞を阻害する。ネットやDVDにパッケージするには向かない、真実を伝えるには納得する表現形式だ。地味にシークレットでアンダーグラウンドでやるしかないことに、賛成する。だから、この文章は見逃してくれないかな。