すべての「クズ共」のために

http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27028.html

授業で中学んときの英語に出会ったとき、シニフィアン(文字)/シニフィエ(概念)の関係の文化的恣意性に気がついて(嫌気がさして放棄!)、そっからアートの象徴主義(何をどう描いたら何が伝わるか、という視覚伝達言語の歴史学)の扉を開いたんだよね。つまり表現とは、誰か他人へ伝わることの実践であり研究でありその血肉化し体系化した記号論であり、コミュニケーション技法であると理解したのだ。元々アートの語源とはラテン語のars[技術を]指す言葉だったわけだし間違ってはいない。内実や実存との格闘があって、絵画の歴史ってのは巧く表現の技法と実存を腑分け出来がたい。人生の物語を人は好む、そっちの方が受けがいい、有名な作家はバックボーンが立っている。内実をどの様に伝えるかと、どの様な内実かを、ない交ぜにした批評をしてきたといっていい。全部わざとである。
グラフィックの歴史は、あえて現代美術をトレースする形で20世紀に進んできた、しかし大きなところが違う。これはおいらが現代美術作家を目指さないことの理由でもある。商業デザインの縛りであるシニフィエ「この商品は良いです、買ってください」と、グラフィックという容器の方のシニフィアン。しかし、そこから溢れ出る嘘のつけない作家としての言語がつい語ってしまう「この商品なんてどうでもいいです、それより私を見てください」という本当の内実。これがあるのが作家であり現代美術に拮抗している表現者であると、そこへ向かうべきだと。
よくしらないけどソシュール言語学以降の構造主義もその流れだし、シチュアショニストもそこが肝だね。で今やってるデザインやブランディングアートディレクションもそうしたことと表裏にある。現代美術がだらしなく売れることと評価を混ぜっ返すいま、グラフィックデザインは徹底的にメタな視点から始まる。もっとも中心で資本主義と人間の対決がある、大抵は作家自身が自分のスペクタクルに溺れるのだけれど。

さて、そこから語るべき物語はありうるのだろうか、何を話せば良いのだろうか。僕は立ち尽くすのだ、そこまでして伝えなければならない自我を持ち合わせているのか、と。んまぁ、手に職はついているので、それだけの人、になれることも知っているのだが、それは許されないのだと。




今、アルフォンソ・リンギスとジャン=リュック・ナンシーモーリス・ブランショの「共同体」の言葉を拾い集め、少し励まされている(だいたいきっかけは月曜社の小林さんの書いた人文書の文章だったりするのだけれど)。閉じた主体で悩まされるのではないよ、と。(そして60年代の平岡正明の自然発生性ソヴィエト論、暴動論(反前衛党)と“場”への視線等はパラレルである)
ブランショの「友愛」概念やだったりアガンベン短調マイナーな香りのする存在論だったり、最近は「人文」とされ「哲学」と思われない彼らの言葉から哲学を当然ながら接種し人生を生きる。自分の人生を愛せ。人々と自分のノイズを奏でていくのだ、アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』から無限に残響する生きること感じること、現象学ソシュール言語学・ポストコロニアリズムポスト構造主義が解け合った、旅としか云えない人生を、「共同体をもたない人々の共同体、否定的共同体」として進む道をくれる。希望である。

そっからは反撃だ。コミュニズムの再定礎化というのか、経済でも権力でもない何かアナーキーなモノ群れへの信頼。経済を返す刀、バタイユ(普遍経済学!)とカイヨワを使い「遊び」の根源的欲望「呪われた部分」であり、素人の乱的に「まじめにふざける」ことで批評する。権力もブルデュー/フーコー/バトラーなんかで軽くいなしておいて、あとは相手にしないで徹底的に共同体を見つめる、自分たちの勝手に作ったかくめい後の世界で「遊びを馬鹿にしちゃいっけないよ(松本哉)」と営む。不信を前提にした公正もアイロニーも効用も糞だデストロイ、煙たいブリストルじゃないとわからんか。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/biblio/democrat.htm

「強力な感情とは、活動する感受性が、こちらにやってくるものを、笑い、涙、祝福、そして呪いで迎えるために使うものである。呪いと涙は、それ自体が力である。笑いと涙は風景を刺激し、波立たせ、祝福と呪いは世界の道のりを高貴なものにし、また混乱させる。笑いは涙から独立しており、涙に先行し、祝福は呪いに先行する。」アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』
だからRLLの姿勢はラフターでありリスペクトなのである。
何も共有していない者たちの共同体