メモ-観念思考主義として

http://www.shinroohtake.jp/exhibition.html
さて、大竹伸朗の『全景』はマストです、行けなければ。
特に「スクラップ・ブック」と「網膜」は実物を見てること。自分が影響下にあったことをもう一度アウラを咀嚼することで、追体験し克服する必要がある。つまりコンプレックスなんだな、彼は。実際に何度か前のボスの関係でお見かけしたことはあるけれど、人そのものより画面の方が強いタイプだからね。



http://www.nihonshinju.com/
『9.11-8.15 日本心中』は、膝を正して見なければいけない気がする。
少なくとも彼の辿ってきた道の延長上に、僕が思考して指向していると自覚する。
針生一郎全集、西荻の某古書で3万だったけれど買ってしまいそう。。。。

http://correlative.org/exhibition/2006/oura/info.html
これは週末のRAW LIFEとかぶっていて行けないけれど。





91年のロス暴動がスヌープ主演映画化!
おまけにN.W.A.の名曲『FUCK THA POLICE』もをカバー!!
いつ日本公開なのだろう、楽しみ。
予告編↓
http://www.youtube.com/watch?v=g52ZSnNB500

これは僕のリアルなRIOTの記憶と連動するなー
このロドニー・キング事件と暴動を報じた新聞とマルコムXをコラージュした作品を学生時代作ったのだっけ。
東欧民主化と共に、僕の頭の片隅で世界を思考する基礎になった出来事だからね。

これはbanchouさんのブログ『不可視の学院』からの情報。
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/





ダーウィンの悪夢』も興味深い。
こちらはイルコモンズさんのブログから。
http://illcomm.exblog.jp/3935572/


思うに、収奪という概念はこういったドキュメンタリー的エンタメで学ぶしか、今の日本人には理解出来ないのだろう。つまりね、収奪を指し示してもらって理解したことのない日本人が多くなったと感じるのね。それじゃマルクス読んでも分からないよ、書かれた概念の形而上思考出来ないんだから。

つまり…概念は、それを指し示される世界観の準備がない場合、抽象表現では届かない。具体例を挙げなければ分からない、悲しい体験主義の蔓延があると考える。宮台的に云うなら思想的グランド・デザインがない世界に生きる人々ということ。概念の射程が非常に落ちている。

大竹伸朗針生一郎に関してもそう。コンセプチャルとはアートの世界の概念だけれど、それもアートの近代のバックグランドがないと、ただの網膜体験で終わる。

もう家畜化して歴史の忘却が始まっている。歴史とは未来と対語の概念だから、社会と同意義語なのに。これは僕の思う「人」とは違う。(最近死刑コミュで、そういった意味で消耗したのだ、死は体験出来ない形而上の問題だので!)


これは、banchouさんのブログ『不可視の学院』の最新エントリー「憎悪の根拠」にも通じるのかな。その焦燥感と無力感は、リアリティを持ったドキュメンタリ/インスタレーション作品の体験でしか、抗えないのかな、とも。




歴史という概念は、共同幻想である共通した社会感覚である時代の移り変わり、時間軸。カントの純理だっけ、∞+∞=∞くん、このインプットの絶対量から構築される世界観の限界への批判は(読んでないから又聞き)、だから世界は窒息しそうにいつも不完全に遅い。

だから僕は流行を信じるのだ、切っ先にいるスノッブな彼ら彼女らの感覚を、愚鈍な時代に振り回される大衆の相対として。流行はハヤル瞬間にそれではなくなる未来である。移り変わる共同幻想の先頭であり、鋭敏な時代の匂いを嗅ぎ分ける、観念としての前衛だからだ。
というつもりで、僕はソンタグよろしくキャンプ(http://www.artgene.net/dictionary/cat79/post_471.html)に突っ走ってきた。


さて、どうしようか。ドキュメンタリ/インスタレーションを模索するべきかな?