「日本ロック雑誌クロニクル」「シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践」を読む。


日本ロック雑誌クロニクル

日本ロック雑誌クロニクル


後半の「ロックマガジン」の阿木譲のインタビューが圧巻であった。僕はいつも古本屋で何冊かを斜め読みする程度だったのだが、様々な場所で伝説としてしか語られていないrmの具体的な沿革とベクトルの変遷を読みとれた。また2順目だったロックンロールその物の困惑と冒険を反映した内容だったことも。
少なくとも現在世界音楽としてロックンロールが世界を更新してゆくことがなくなった、という僕自身の認識が、阿木のベクトルとさして変わらないことが確認できたことが最大の収穫か。知らなかった彼に若干のシンパシーを感じるのはそれだけではなかった。現代美術と現代思想を先端ポップミュージックに妖しげに導入して自分なりの解釈をして感性だけで突っ走ってしまう感覚などは(無論彼には到底敵わないけれど)近い匂いを嗅ぎ取ってしまう。彼はロックを捨てエレクトロニカへと向かった分けだが、僕は9.11と共にロックンロォルへ踵を返した、これは決意と、本書で改めて思う。



http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/shohyo/Shinkopeshon.html

こちらはまだ未読。正しく世界と繋がる音楽受容としてなら、こんな風な周縁と王道ビルボードhiphopをフォローすべきだとは思うのだが。

僕がロックンロォルへと縮小して行ったのは、やはりここに何かが埋まっていると捨て切れていないから。ディストーションギターと8のドラムには身体にアクションさせる物があると思うから。阿木はカートのロックンロォルを知らないのだろう。僕はまだ一抹の希望を6弦のノイズから感じるのだ。


Wasted Days

Wasted Days

でもって今聴いているのはその中間に位置するヘルキャットの彼ら。ラテン-レゲエ-スカ-パンク-ガレージロック-リズム&ブルーズを彷徨う伊達男のエッジを見る。彼らは僕にとってはロックンロォル。そこで鳴っているのはロックンロォルエチケットに馴染んだ自律性である。