マンチェ礼賛

quawabe2004-08-27

マジな話、マンチェに未だ何かあると思い込んでいる奴が多すぎる。
セカンド・サマー・オブ・ラブ〜レイブ・ムーブメントは確かに非音楽的に大きな物があった。クライストとインディー・ロック・ファンとCNDとヒッピーを繋ぎレイバーを紡ぎ出し、新しい回路を作った。この回路は非常に今日的な闘争と思考を準備させてくれる所まで僕らを導き出してくれる。日本でもその手の野外パーティに行けば、タイダイ染めのTシャツ屋に並んで環境系やら色々なオルタナティブ世界とのつながりを確保出来る様になった。
でも、マンチェはロックを5年やそこら延命させたぐらいで、UK独自の閉じこもったブームであった。音楽的にアシッド・ハウスがアメリカに浸透していなかった事で、そのロック版であるインディー・ダンスが受容されなかったことはよくわかる。
しかし古株の元クラッシュのミック・ジョーンズがパブエネとU2共同ツアーの前座として地味に全米を廻ってカレッジチャートにファンを掴むのと正反対に、多くのバンドはUKでの活動に終始した。ジーザス・ジョーンズやEMFがアメリカに新しいロックとしてシングル単位で紹介されたりしたがその後は大して話題にもならなかった。
例によって白人学生バンドが黒人発のダンスミュージックをパクってロックにして〜って式図を真逃れない。E食って幸せ〜な快楽主義だって裕福なお子さま達のお遊び、メンタリティーは同時代の日本のジュリアナ姐さんと変わらない。クボケンがなんと言おうとね。
おまけにUKの内弁慶がこの後10年続く切っ掛けでもある。
マンチェが伝わる前の情勢、それは音楽的にはニューウェイブが万策が尽き枯れかけていた時代。U2とスミスとメリーチェン以外は小さなサークルのお友達グループに成り下がっていた。メタルの猛威に怯え縮こまったロックファンはインディー・ロックなる物にしがみついていた。ワールド・ミュージック旋風が吹き荒れ、新しいブラック・ミュージックが花開いていた。ロックンロォル3度目の死の時だった。
マンチェは救いだった、かなり中途半端な。ロックンロォルの救世主は直後のグランジであり、マンチェはロックファンにとって有り合わせであった、残念ながら。あの後ロックを捨てハウスに流れたDJが大量発生し、今に至るフロア・ミュージックの基礎が出来た。(その後のブリットポップは丁寧にダンスを取り除いた物だったのはその反動である)
音楽性を変容させた、カメレオンのプライマル・スクリームとペテン師シャーラタンズ以外は皆解散し、マッドチェスタースタイルのバンドは存在しない。流行りのツギハギスタイルの仇花だった様だ。もう僕のパンツも太くない。