ぶちまけた段ボール4箱分のフライヤーを眺め呆然とする。
今日、扇風機が死んだ。しかたないからクーラーをつける。



やはり愛だ、といったのはネグリ=ハートだったかレノン=マッカートニーだったか。
しかしそれは、永遠なのか瞬間なのか。
けして挿入後の射精のことではないし、利己遺伝子が残した一粒種でもない。
世界でたった一人であるのに、ひとりではない、という肯定をする感じ想い。
だから世界解釈と人生についての大方の答というのも、理解できる。
前述の二組も、共同作業によって愛を確認したのだろう。


しかし最隣人、仲間、共同体、それらは、ひとりの自分を救ってくれるのだろうか。
小さな政治から人は逃れられない、愛はそこで。
大きな愛のある政治なんて、ない。
ひとりで生まれひとりで死ぬのだ。
その時間に愛は現れるのかもしれない、救うかは確実じゃない。
救う代わりに、文化を隣人とは持つ。
文化はひとりでは持てない。
文化への愛はひとりとひとりを繋いでいる。
最も小さな文化は親子や恋人同士にしか通じないものである。
文化は一瞬。次の瞬間は古びたモノになるかもしれない。
変わらない文化はない、心変わりしない人はいない。


では、もう一つの出口は、見えない隣人を信じる信仰なのか。
無為の/明かしえぬ/何も共有していない者たちの共同体作り。
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隣人でない人の感じを感じる。ここにいない人の感じ。
作家の鼓動を想いを情熱を人生を思い出し尊敬する。
それを芸術と呼ぶ。作品というコミュニケーションもしくは愛。
作品は永遠。時間と空間を旅し種は蒔かれ続ける。
作家は、現世のひとりきりの愛を、投瓶的に後世に託すのだ。



と考えてしまうのは、今日一日FISHMANSJoy Divisionを交互にずっと聴いていたからかもしれない。
存在論と、隣人や最愛の他人と自分に悩んだ共通した指向があるね、そしてそれで死んじゃったし。





「あーもーくそだりー
汗だらだらー
もーやだ全部やだ!

って愚痴いいまくって楽しく生きるの!」

ってこの前教えてもらったんだ。
生きてる芸術みたいなあのコ。
coooolやキャンプ、パンクやファンクもおんなじことだな。
そういやブラック・アトランティックもミルプラトーもおんなじかもな。











さて次回9/9の「かくめい生活研究所」は、ゲストに
ぢごくだにさんとぺぺ長谷川所長を迎えて、
クイア・ジェンダーセクシャリティー・変態をテーマに放談をお送りします!
ぢごくだにさんは、よくセピアで呑んだくれたりしてますが、実は専門がクイア/ジェンダー研究(?)つうか実践(?)!!
そのあたりLGBT関連から、変態恋愛やセクハラぎりぎりトークまで、色々聞いてみたいです!!!