uprising

マイミクwolf先生の観測気球にあえて乗って「フランスの暴動」について思ったことを綴る散文。



まぁ最初に思ったのは憎しみ [DVD]だったのねフランスのバンリュー(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC)だし。当然ワッツ暴動('65)やロドニー・キングのLA暴動('92)であったりもしたんだけれども。でも今回のこれはレイシズムとは違うとすぐに思ったのね。といっても後期のマーチン・ルーサー・キングJrはワッツ暴動を階級的反乱と見ていたりして、似ている感は当然あるのだけど。

で、フランスの同化政策の矛盾を突くことは容易いのだけれど、UKやカナダやオーストラリアの多文化主義だって問題が山積…洋楽好きなら自明だったりして(昨今のサブカルチャーはその摩擦から生まれているとも言えそうなんだけど)。だからどんな解釈したらいいのか少し眺めていた、若干の共感と不安を感じながら。


移民の二世三世が憤慨することはめちゃめちゃ多いだろ。出生主義や血統主義が根拠の国籍制度だって矛盾だらけ。端的にハローワークな下部構造問題や白黒問題やムスリム差別だってある。そりゃ制度の不満はいくらでもあるだろう。それらの複合問題か、といえばそうだとも言える。でもこれかな。
歴史の中での自分らの立ち位置は被植民のガキ、それも伝統から切り離された浮き草。生活圏にはその対比的に正しいとされる保守がいる、相対的には金持ちで潔白な人間として君臨してる。これは階級なんかじゃないし、本質的には空虚なアティテュードなんだけれど、揺るがせ様がない。ルペンを軽率に支持したりする一般人が目に見える、支配するエスタブリッシュメントは見えない。経済や人種や宗教に見えかくれする帝国主義後の歪み。やっぱ「憎しみ」。


国民国家帝国主義に生まれ冷戦を育んだ。ようやくポストコロニアル(というか全世界コロニアル)なグローバリズム時代だ。近代国民国家の前提の「領土」「国民」「資本」のうち「資本」はとっくに越境していた。で、資本の要求で現れた移民が「国民」生活を揺るがすってことじゃなくて「国民」ってフィクションが揺れてきてるってことを考える。国民国家の終演、そこのグルグルの摩擦が今回のだ、文化摩擦なんてことにしちゃいけない。帝国主義は臣民と被植民を裁いていたけれど、今の時代は裁かない、だって「国民」は皆、被植民。とにかく幻想の民族主義に逃げ込む隙のない分、スクリームするのは彼等だっただけで。

そんな雑感を思い出したのは出版直後のネグリ=ハートの「マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)」の連想から。今回パリで暴れた子供たちがそうだってんじゃなくて。被植民から振れて逃げ切るにはそれしかとか希望無いのかとか思い巡らすんだ、絶望的に。非熟練単純労働及びサービス業態のプロへの強制を突き付けられるなら火を付けたくなるだろうし、引きこもるかたむろるかは結果論。

安直につなげてしまうぞ。これってこの国では「ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)」の下の平等な「希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」の子供だ。プチナショやヘタレウヨなんて貶めてデータベース人格のカーニバル化社会なんて冗談に頷いている間に、僕らの後輩は今回の彼等やゲットーのエス二シティや郊外のプア・ホワイトや田舎のレット・ネックと同じムカつきと憎しみの中に生きるんだ。20年後に地方都市に生まれた僕の為に何ができるんだろう。明確な反乱を用意出来るだけパリの十代は視覚化出来たけれど。



世知辛い渡る世間は鬼ばかりこの世の沙汰は金次第。相変わらず論旨無し裏付け無しで勢いで書いてるんで朝は恥ずかしいかもね。さらば。